HOME > 高校生ちゃんねる > この人だ〜れ? > 第6回 中島敦

1909(明治42)年、東京に、父田人、母チヨの長男として生まれる。
中島家は代々日本橋乗物町の商家だったが、祖父(慶太郎、号は撫山)の代に家業を廃し、幕末になって漢学塾を開いた。伯父三人は漢学者、父も漢文の教員という家柄で、敦の漢学に対する深い教養と、流麗な漢文訓読調の文体はこうした環境によって醸成されたものといえよう。
家庭的には幸せが薄く、敦が1歳に満たないうちに父母は離婚し、母はその翌年病死した。その後、継母を迎えることになるが、敦とは折り合いが悪かった。父の転勤に従って朝鮮に移住、京城中を4年で修了、一高の文甲に3番の成績で入学、校友会雑誌に習作を何作か発表した。この頃から喘息の発作に悩まされ、結局これが生涯の宿痾と成った。
東京帝国大学国文科入学。因みに同じ年に津島修治(太宰治)が仏文科に入学している。学生時代及び卒業後の数年間は享楽主義者(ディレッタント)としての生活を楽しみ、絵画、音楽、ダンス、旅行、園芸などに熱中し、東西古今の文芸作品を乱読した。とくに永井荷風や谷崎潤一郎の作品に傾倒し、卒論は「耽美派の研究」であった。
また学生時代にすでに橋本タカと結婚していたが、昭和8年、大学を卒業して横浜高女の教員となった4月に長男桓が生まれた。家庭的な幸せを得たその一方で、昭和9年には生命をも危ぶまれるほどの烈しい喘息の発作に襲われる。もはや自らの人生の短命なることを予感せざるを得ない。その困惑や焦燥、悔恨の念にさいなまれながら、こうした心の風景を『狼疾記』『かめれおん日記』(昭和11年)に描き、また『悟浄歎異』(昭和14年)、『山月記』(昭和15年)を書いた。敦の手法は中国の古典や伝説に取材しながら、つねに主人公の中に自己の精神のありようを問いかけて行くもので、格調の高い作品となっている。
昭和16年、横浜高女を退職し、心機一転を図って南洋庁の官吏となる。パラオに赴任する。国内では『山月記』『文字禍』が発表され、つづいて『光と風と夢』が発表されるに及んで、敦は文壇に於いて一躍脚光を浴びる。
昭和17年9月、創作に専念しようと職を辞して帰国する。喘息の発作とそれに伴う極度の衰弱にさいなまれながら、『弟子』『悟浄出世』『李陵』『名人伝』などの作品を書いた。12月4日喘息の発作によって死去した。
生前報われること少なく、また余りにも短い生涯であったが、没後に刊行された敦の作品は、今に至るまで高い評価を得ている
| 明治42年 | (1909) | 1歳 | 5月5日 東京に生まれる |
|---|---|---|---|
| 明治43年 | (1910) | 2歳 | 母と死別 |
| 大正15年 | (1926) | 18歳 | 第一高等学校文科に入学 |
| 昭和2年 | (1927) | 19歳 | 肋膜炎により一年休学 |
| 昭和5年 | (1930) | 22歳 | 東京帝国大学文学部国文科入学 |
| 昭和7年 | (1932) | 24歳 | 橋本タカと一緒になる |
| 昭和8年 | (1933) | 25歳 | 東京帝大を卒業。横浜高等女学校の教員(英語・国語)となる。 |
| 昭和9年 | (1934) | 26歳 | 『中央公論』に応募した「虎狩」が選外佳作となる |
| 昭和11年 | (1936) | 28歳 | 「狼疾記」「かめれおん日記」執筆 夏に中国旅行 |
| 昭和16年 | (1941) | 33歳 | 横浜高等女学校を退職し、パラオの南洋庁の官吏となる。 |
| 昭和17年 | (1942) | 34歳 | 病気が悪化して3月に帰国。 9月南洋庁を退職。創作に専念するが、喘息のため12月4日没。 |